濃尾震災と紀念堂

今から118年前の明治24年(1891)10月28日午前6時37分ころ、マグニチュード8.0をこえる巨大な内陸性直下型地震が、根尾谷を震源地として発生しました。その被害地は、岐阜県・愛知県を中心に滋賀県・福井県など広い範囲におよび、家屋の倒壊や、直後に発生した火災により、死傷者は約3万人にのぼりました。岐阜県内での死者は約5000人、被害額は判明した分だけでも5180万円という巨額でした(この前年度の岐阜県の決算額は約35万円),岐阜市内でも4割近くの家屋が全焼し、死者は1000人をこえました。本巣市にある地震断層観察館では、このときの断層が保存され、地震の脅威をまざまざと見せつけています。

その被害のようすは、新旧さまざまな手段で報道され、最新技術であった写真も状況を記録し伝えるために駆使されました。また、地震発生後1カ月ほどにして、被害状況や地震学説などをまとめた単行本や、被害区域図がつぎつぎと出版されました情報をまず伝えたのは新聞で、地震発生当日の夕方から、号外による報道がされています。また新聞・雑誌の附録として、石版画や銅版画による細密な絵が出版されました。一方、江戸時代以来の方法である木版画もまだ健在で、東京で出版された5種類の錦絵のほか、地元で発行された簡単な瓦版が知られています。これらの絵画報道は、地震後の現地取材や写真をもとにしたものと、地震の瞬間やその直後を描いた想像図とがあります。後者では、建物や町並み、倒壊した橋などの実景をある程度ふまえつつも、炎上する家屋やにげまどう人びとなどを描き加え、地震の恐ろしさがリアルに伝わってきます。また、この地震がきっかけとなって貴族院が提出した建議にもとづき、明治25年には震災予防調査会が発足しました。

このとき亡くなった人びとの慰霊のために、衆議院議員であった天野若円(1851~1909)が建立したのが震災紀念堂(岐阜市若宮町2丁目)です。若円は仏教組織を基盤として、明治23年7月1日に第1回衆議院議員選挙に当選しました。同じ年には愛国と仏教精神の高揚を願って愛国協会を設立し、本部を岐阜市に置きました。会員は大隈重信・犬養毅らを初め、全国に11万人以上に及んでいます。その翌年に濃尾震災に遭遇し、大きな被害に心を痛めた若円は、愛国協会の事業として紀念堂を建立して亡くなった方の霊を慰めることとしたのです。建立にあたっては、岐阜県令の小崎利準らの賛同のもと、市内有力財界人など各界の協力をえて、愛国協会を通じて全国各地からも寄附が寄せられました。明治26年に現在の紀年堂の地を借り受けて、同年2月から田の埋め立てを開始。10月中に建築はほぼ落成、本願寺より本尊を寄附され、この年の震災死亡者三回忌にさいして開堂式を挙行しました。明治26年8月には、岐阜県令の小崎利準から「徳及顕幽」の額が寄贈されました。

若円が亡くなったのちも毎月28日には慰霊が営まれ、現在まで続けられています。紀念堂は昭和20年の空襲でも燃えることなく守られ、今もほぼ往時の姿のままです。しかし、建設から116年を経たため、2005年から耐震・補強工事が行われました。また、これからも守り伝えていくペき建築物として、2006年に文化庁の登録文化財に指定されています。

天野若圓とは

明治の衆議院議員・天野若圓は、濃尾地震で亡くなった方々を祀る紀念堂を作るために、全国を廻り、寄付を募りました。